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時代風景と鉄道と写真と [日々雑感]

 以前に高校時代は写真部であったと記した事があった。当時の
愛機であるOLYMPUSを携え、鉄道は勿論風景等も良く撮り、年に
1回の高写連にも出品していた(が当然入選する事など無かった)。

 鉄道写真を撮る時、いつも余計な物が写らないよう心がけるの
は多くのRailファンに理解してもらえると思う。それら"余計"な物と
は他の車輌であったり人々であったりする。純粋な風景写真として
の鉄道を撮影する以外、Railファンは可能な限り"その車輌のみ"を
形式記録の様な形で残したいのだ。実際に私もそのような撮影に
傾いてしまうのだが、同時にそのような写真は後年になると、実に
無味乾燥であるという事実にも気づいていたが、特にその理由に
関して考察する事もなかった。 数十年後に見る事を考えている訳
ではないし、純粋にその車輌の記録であれば、鉄道写真としては
それだけで十分な意味を持つので、敢えて余計な事を考えて撮影時
に戸惑う方が、結果的に意図した写真が撮れないのである。

 しかし、先日購入した写真集を眺めている時、フト先述の疑問が
浮かんできた。

kikansya.jpg
大木茂写真集"汽罐車―よみがえる鉄路の記憶1963‐72"

 ナンだろう? この写真に刻まれている"瞬間"には何が存在
しているのだろう。疑問と言う程のものではないが、とにかく
この写真集を眺めながら、何となく引っかかるものを感じていた。
 そんな疑問も日常の中に忘れていた先日、部屋に散らばって
いる鉄道関連の雑誌を整理しながらパラパラと眺めていた時、
ある写真に目がとまった。それは2010年の鉄道ファン3月号76
ページ上の写真で、新橋発の東北方面行きの普通列車を、C61
が牽引している写真である。夏の夕方らしいのだが、古い日劇の
建物をバックに、機関士が前方を確認している。写真としては
タイミングが少し遅れており、若干後追い的な構図になっている。
つまり、先から述べているような形式写真としては、やはり100点
満点とは言えない写真なのだ。しかし、この写真には鉄道という
視点を通した"その時代の日常"、つまり"時代風景"があるのでは
ないだろうか・・・。


 鉄道の魅力、それは乗り物としての"動体"であるのは勿論なの
だが、それ以上に生活に密着した"動態"と言う意味合いの方が
大きいのだろうと思う。
 人々の織り成す生活と、それに伴う街の発展。鉄道はそれらを
支えてきたあらゆる物流の根幹である。街が今の姿になる以前
から、鉄路はそこに存在し、街の発展を促し、そしてそれを見続け
てきた証人でもあるのだ。

 何気ないスナップとしての鉄道写真。それはハイスペックな一眼
を用い、気合を入れて神経質に撮影する必要は無いのだろう。私の
愛機であるD300Sは勿論優れたカメラであり、私の心強い相棒で
あるのだが、時代風景としての優れた鉄道写真を撮影するには、
私にとってまだまだ過ぎたカメラなのだと、改めてそう感じてしまう。
 
 これからはもう少しS90にも活躍してもらおう。そしてD300Sで
時代の中の鉄道を切り取れるよう、これからも日々精進を心がけ、
後年の人たちが見た時に、多くの人にとって時代の心象風景と
成り得るような、そんな鉄道写真が撮れるようになりたいと思う。


タグ:鉄道
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